西郷隆盛像はなぜ上野にあるのか?皇居前断念の裏と妻が放った言葉

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西郷隆盛像はなぜ上野にあるのか?皇居前断念の裏と妻が放った言葉
西郷隆盛像はなぜ上野にあるのか?皇居前断念の裏と妻が放った言葉
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🎵 西郷隆盛像はなぜ上野にあるのか?皇居前断念の裏と妻が放った言葉

東京・上野恩賜公園のシンボルとして、120年以上にわたり親しまれている西郷隆盛の銅像。愛犬を連れ、浴衣姿で佇むその姿は東京観光の定番風景となっていますが、ふと立ち止まって考えると一つの大きな疑問が浮かびます。「薩摩(鹿児島)の英雄である西郷隆盛の像が、なぜ縁もゆかりも薄そうに見える東京の上野に建てられたのか」という点です。

維新の立役者でありながら、最後は西南戦争で「朝敵」として命を落とした西郷。実は、この銅像が上野に立つ背景には、幻に終わった「皇居前建立計画」の挫折、旧敵である幕臣たちとの知られざる因縁、そして除幕式で実妻が放った衝撃的な発言など、明治政府の権力闘争と政治的思惑が複雑に絡み合っていました。歴史の教科書では語られない、銅像建立の深層を取材データと一次資料から紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:当初の有力候補地は「皇居前」だったが、西南戦争で賊軍の将となった経歴を軍部・政府保守派が問題視し却下された。
  • 要点2:上野恩賜公園が選ばれた理由は、戊辰戦争の「上野戦争」で江戸の街を戦火から救った司令官としての功績と、敵味方の鎮魂・国民統合の象徴とするため。
  • 要点3:除幕式で妻イトが漏らした「うちの人はこんな人ではない」という言葉の真意は、肖像写真嫌いによる容姿の不一致だけでなく、正装を重んじる薩摩武士としての尊厳にあった。

【歴史の真相】なぜ鹿児島ではなく東京の上野恩賜公園だったのか

西郷隆盛といえば薩摩藩、現在の鹿児島県を代表する偉人です。当然、銅像を建てるなら本拠地である鹿児島が最優先されるはずですが、国家的な巨大プロジェクトとして最初に東京で建立が進められました。その最大の動機は、明治という新しい近代国家における「国民的統合のシンボル」を首都・東京に創り出すことにありました。

明治維新から時が経ち、維新の元勲たちが次々と世を去る中、国民の間で圧倒的な人気を誇っていたのは大久保利通でも木戸孝允でもなく、不遇の死を遂げた西郷隆盛でした。明治22(1889)年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の名誉回復が正式に行われると、旧友の吉井友実や宮内大臣の土方久元らが中心となり、全国から寄付金を募る銅像建立計画が動き出します。集まった義援金は当時の金額で2万5,000円余り(現在の貨幣価値で数億円相当)、寄付者は皇族から一般平民まで2万5,000人以上に達しました。

東京という帝都の中心に西郷を顕彰することは、単なる一武将の記念碑ではなく、「内戦の傷を癒やし、日本中を一つにまとめる」という国家的な政治力学が働いていたのです。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:artplaza.geidai.ac.jp)

皇居前却下の理由|幻の計画と楠木正成像との決定的な格差

銅像の建立地を決める委員会において、当初真っ先に推薦された場所は上野ではありませんでした。維新回天を成し遂げた最大の功労者として、「皇居前広場」に建立する案が最有力として浮上していたのです。

しかし、この計画は宮内省や陸軍上層部からの猛烈な反対に遭い、即座に白紙撤回されました。その決定的な障壁となったのが、明治10(1877)年の西南戦争です。西郷は明治天皇から深く愛された臣下であったものの、形式上は国家と天皇の軍隊に反旗を翻した「反逆の首謀者」でした。名誉回復がなされ正三位の官位が追贈されたとはいえ、皇居の正面に天皇へ銃口を向けた元反乱軍の将を据えることは、大日本帝国の軍規と皇室の権威において到底容認できなかったのです。

結果として皇居前広場には、皇室への絶対的忠誠の象徴である楠木正成像が住友家の寄進によって建立されることになりました。近代国家の「忠君」のモデルとして楠木正成が選ばれる一方、反骨の英雄であった西郷は皇居の外、市民の憩いの場であった上野へと追いやられる形となったのです。

比較項目上野・西郷隆盛像皇居外苑・楠木正成像鹿児島市・西郷隆盛銅像
建立時期明治31(1898)年明治33(1900)年昭和12(1937)年
服装・外観浴衣(散歩着)・草履・愛犬ツン甲冑姿の騎馬像(勇壮な武将)陸軍大将の軍服姿
主な制作者高村光雲(本体)、後藤貞行(犬)高村光雲、山田鬼斎 ほか安藤照(忠犬ハチ公の制作者)
設置場所の政治的意図庶民への親愛・上野戦争の鎮魂国家神道・天皇への絶対的忠誠の誇示郷土の英雄顕彰・軍国主義の高揚
編集部の歴史的評価反逆者と英雄の矛盾を呑んだ妥協の産物皇室中心主義プロパガンダの最高傑作地元民の悲願による「軍神」としての復活

上野戦争と彰義隊の因縁|寛永寺の灰燼と敗者への鎮魂

皇居前を却下された委員会が、次善の策として選んだのが上野恩賜公園でした。この地が選ばれた背景には、慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争の天王山、「上野戦争」における西郷の立ち回りが深く関わっています。

当時、旧幕臣たちで結成された彰義隊約1,000名が上野の寛永寺に立て籠もり、新政府軍と徹底抗戦の構えを見せていました。新政府軍の総指揮を執った西郷隆盛は、アームストロング砲などの圧倒的な火力を用いてわずか半日で彰義隊を壊滅させました。特筆すべきは、西郷が江戸市中への被害を最小限に食い止め、戦火が市街地に広がるのを防いだ点です。

さらに重要な歴史的事実があります。上野恩賜公園内には、敗北した彰義隊の戦死者を弔う「彰義隊の墓」が存在します。当時、賊軍の埋葬は禁じられていましたが、西郷は敵の遺体が野晒しにされているのを憐れみ、密かに供養することを容認したと伝えられています。敵味方に分かれて激突した激戦の地に、新政府軍の指揮官であり、後に自らも「賊軍」となった西郷の像を配置する。それは、明治という時代が生み出した勝者と敗者の怨念を浄化し、歴史的和解を果たすための極めて象徴的な配置だったのです。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:zatsuneta.com)

西郷隆盛像が浴衣を着ている理由と「写真嫌い」が生んだ悲劇

上野の西郷像を見る多くの人が抱く「なぜ偉大な武将が軍服ではなく、浴衣(普段着)で愛犬を連れているのか?」という疑問。ここにも、明治政府による高度な政治的配慮と、西郷本人の特異な性格が反映されています。

最大の理由は、軍服を着せることが政治的に許されなかったことです。陸軍大将であった西郷に大将服を着せれば、西南戦争で政府軍を苦しめた「反乱軍の首魁」を公式に肯定することになりかねず、陸軍卿であった山縣有朋らが警戒感を露わにしました。そこで彫刻を担当した彫刻家・高村光雲らは、西郷が生前好んでいた「兎狩り(ウサギ狩り)」の姿を採用。連れている愛犬ツン(薩摩犬の雌、後藤貞行作)とともに、軍事的威圧感を完全に排除した「慈愛に満ちた庶民派の西郷像」へと意図的に脱色したのです。

さらに事態を複雑にしたのが、「西郷隆盛の極端な写真嫌い」でした。西郷は暗殺を警戒したことや自身の哲学から、生前に一度も写真を残しませんでした。教科書に掲載されている有名な肖像画は、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが、弟の西郷従道と従兄弟の大山巌の顔をモンタージュ合成して描いた想像図に過ぎません。高村光雲はこのキヨッソーネの絵画や親族の証言を頼りに、暗中模索の中で像の造形を強いられることになりました。

除幕式で妻イトが絶句「宿六はこげんなお人じゃなかつた」の真意

明治31(1898)年12月18日、寒風吹きすさぶ上野公園で執り行われた除幕式。そこで歴史に残るハプニングが起きます。紅白の幕が引かれ、巨大な銅像が姿を現した瞬間、来賓として最前列に招かれていた西郷の3番目の妻、西郷イトが隣にいた従道の妻に小声でこう漏らしたのです。

「宿六(うちの主人)は、こげんなお人じゃなかつたこて」

この発言は長年、「顔がまったく似ていなかったことへの落胆」として解釈されてきました。しかし、当時の親族の手記や薩摩藩の生活様式を検証すると、イトが衝撃を受けた理由は顔の造作だけではありませんでした。イトが本当に絶句したのは、「天下の西郷隆盛が、人前に決して出るはずのないだらしない姿で晒されていることへの憤り」だったのです。

薩摩武士としての厳格な規律を重んじた西郷は、礼儀作法に極めて厳しい人物でした。兎狩りはあくまで山中での私的な趣味であり、公の場に帯を緩めた着流し(浴衣姿)で現れることなど生涯あり得ませんでした。夫が国家の英雄として顕彰される晴れの舞台で、着流し姿で犬を引く姿に仕立て上げられたことに対し、武士の妻としての誇りが「こげんなお人じゃなかつた」という悲痛な叫びとなって表れたのです。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:artplaza.geidai.ac.jp)

一般に知られていない盲点とネットの誤解

西郷隆盛像を巡っては、SNSやインターネット掲示板において事実と異なる言説が定着しているケースが散見されます。歴史探訪を深めるために、代表的な誤解を是正しておきます。

誤解1:愛犬「ツン」はオスで、西郷の最期まで一緒にいた?

上野の像で西郷の隣にいる愛犬「ツン」は、薩摩半島の現在の薩摩川内市で暮らしていた前田善兵衛から西郷が懇願して譲り受けた「メスの薩摩犬」です。後藤貞行が制作する際、ツンはすでに死亡していたため、別の雄犬の骨格をモデルにして制作されました。そのため、彫刻のプロポーションは雄々しく表現されていますが、ツン自身はウサギ狩りの名手として愛された雌犬でした。また、西南戦争の城山決死戦の直前、西郷は犬たちの命を救うため縄を解いて逃がしており、最期を共にしたわけではありません。

誤解2:西郷像は上野の山から皇居を睨みつけている?

「西南戦争の無念から、上野の西郷像は皇居を睨んでいる」という都市伝説が語られることがありますが、これも地理的・歴史的な誤りです。上野恩賜公園の西郷像が向いている方角は南南東であり、皇居(南西方向)を直視していません。むしろ、西郷がかつて救った東京の市街地、そしてかつて維新の軍勢を率いて上った東海道の方向を静かに見守るように配置されています。

【プロの結論】銅像から学ぶべき「歴史の敗者」に対する日本特有の心理境界

上野の西郷隆盛像は、政治学や社会学の観点からも極めて示唆に富むモニュメントです。欧米の歴史において、国家に対する武装反乱の首謀者は「反逆者」として徹底的に断罪され、公の空間に銅像が建つことは稀です。

しかし日本社会には、死者を等しく仏として敬い、怨霊を鎮魂して神として祀る「御霊信仰(ごりょうしんこう)」の伝統があります。反乱軍の長でありながら、西郷個人の純粋さや誠実さを愛した国民感情。そして、軍服を脱がせて「無害化」したうえで国民的英雄として迎え入れた明治政府の政治的妥協。上野の西郷像は、「勝者と敗者の心理的バウンダリー(境界線)を曖昧にすることで社会の分断を統合しようとした、近代日本人の集団心理の結晶」にほかなりません。

【西郷 隆盛 像 なぜ 上野】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:西郷隆盛の銅像は全国に何体ありますか?どこで見られますか?
A1:代表的な三大銅像として知られているのは、東京の「上野恩賜公園像」(高村光雲作、浴衣姿)、西郷の故郷である「鹿児島市城山町像」(安藤照作、陸軍大将の軍服姿)、そして鹿児島空港近くの「西郷公園像」(実物としては日本最大の高さ10.5m)です。このほか、奄美大島や沖永良部島など流刑地にされた島々にも記念像が点在しています。

Q2:西郷隆盛像が着ている服は本当に「浴衣」なのですか?
A2:正確には綿の入った「丹前(たんぜん)」や「散歩着」と呼ばれる着物です。当時の庶民が寛ぐ際の部屋着・略装であり、外出着としては極めてくだけた服装でした。これが現代において「浴衣姿」として広く定着しています。

Q3:なぜ彫刻家の高村光雲は、そんな批判を受けるような姿で作ったのですか?
A3:高村光雲の独断ではなく、建立委員会(有志の政治家や旧薩摩藩士)の意向が強く働いた結果です。軍服を着せることが政治的タブーであったこと、また「庶民に愛された西郷先生のありのままの人柄を残したい」という発注側の要望を受け、光雲は苦心の末にウサギ狩りの意匠を完成させました。

まとめ:上野の西郷像が現代に問いかけるもの

上野恩賜公園に佇む西郷隆盛像は、単なる東京の名所にとどまらず、維新の動乱、皇居前を巡る政治的排除、彰義隊への鎮魂、そして理想の英雄像を求めた民衆の願いが幾重にも重なり合って成立した歴史の証人です。

浴衣姿で犬を連れたその姿は、一見すると無防備でのどかな散歩の風景に見えます。しかしその足元には、激動の明治を駆け抜け、最後は時代に殉じた男の哀愁と、国家の統合を図るために敗者を飲み込んでいった近代日本の光と影が刻み込まれています。次に上野を訪れる際は、ぜひその視線の先と足元にある歴史の深層に思いを馳せてみてください。 (出典: 西郷 隆盛 像 なぜ 上野(Yahoo!ニュース)

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